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闇の中に一筋の光が見えたのは、開放医療に取り組みだして数年が過ぎた頃でした。いまも忘れられないエピソードがあります。
1972年から3年ほど、私は男性の準閉鎖病棟に勤務していました。毎朝のように数人の患者さんが、真っ青な顔をして私に食ってかかってくる状態が続き、大変なストレスを抱えていました。出勤拒否に近い心情で、休みの日には決して洛北には足を向けず、出勤の朝には病院が近づくと心拍数・血圧ともに上がるのがわかりました。
1年ほど経った頃のある夕方、医局に電話がかかってきました。ちょっと病棟に来てくれないかというのです。なんだろうと思いつつ行ってみると、そこでは看護人たちが、地元でとれたマツタケを焼きながら寛いでおり、「先生も食べえな」と誘ってくれたのです。そして、じつは患者さんが私に食ってかかっていたのは、自分たちが患者さんに「様々な制限を与えているのはあの医者だ」と教えていたからだ、と打ち明けてくれました。
看護人たちも、ただ反発していたのではなく、私たちが本当にやる気かどうかをじっと見ていたのですね。こうした出来事をきっかけに、少しずつ私たちは思いを共有できるようになり、ついに手をたずさえて病棟の鉄格子を外すことができました。私たちにとってはベルリンの壁を壊すのに匹敵する、記念すべき出来事でした。しかし、開放病棟に向けての闘いは、むしろそれからだったのです。
急に鉄格子を外された患者さんたちは、どうしていいかとまどっていました。
それはそうです。これまで制限されるのが当たり前だったのを、急に「主体的に、自分で考えて行動してください」と言われても、なかなかできるものではありません。
患者さんたちは一日中ボーっとしていることが多く、「ぶらぶら開放」「ゴロゴロ開放」などと非難されました。
また、一人で外出できるようになった患者様が、近隣で迷惑行為をするという問題にも悩まされました。私たちは、患者様の自由を確保したと思っていましたが、一方で地域の人びとに我慢を強いていたのです。
たまりかねた地域の方たちの不満が爆発したとき、それは地域の人びとの理解が足りない、差別だ、と怒った職員もいました。しかし、辛抱強く話し合いを続ける中で、権利には義務があり自由には責任があるということ、そして病院のスタッフも患者様も地域の一員であるという意識が育っていき、信頼関係が徐々に築かれていきました。
また、自主的に動くことの楽しさを患者様に知ってもらうよう、レクリエーションやイベントなどを通じて働きかけました。地道な努力の積み重ねによって、ようやく体制が整ってきたなと感じたのは、90年代も後半になってのことでした。
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